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薬師寺

唐招提寺から歩いてすぐの薬師寺にやってきました。


薬師寺


まずは、金堂です。
中には薬師三尊像がります。

薬師三尊像とは薬師如来を中央に、向かって右が日光菩薩、左が月光菩薩です。




金堂


白鳳時代 薬師如来のまたの名を医王如来ともいい、医薬兼備の仏様です。

人間にとって死という一番恐ろしいものを招くのが病気です。

体が動かなくなるのも病気なら、身の不幸、心の病も病気です。

欲が深くて、不正直で、疑い深くて、腹が立ち、不平不満の愚痴ばかり、これ皆病気です。

応病与薬の法薬で、苦を抜き楽を与えて下さる抜苦与楽の仏様。
だから人々に仰がれ、親しまれ、頼られていらっしゃるのです。




薬師寺には見事な東塔と西塔という二つの塔があります。



塔は本来お釈迦様のお墓を意味します。
インドで梵語のストゥーパが音訳されて卒塔婆となり、それが塔婆、更には塔と表現されるようになりました。



お釈迦様のご遺骨(仏舎利)を埋葬して盛り土をしたものが原型です。
その塔婆を遠くからでも拝めるように、また尊敬の気持ちから、より高い台の上にお祀りするようになったのだそうです。




薬師寺東塔は一見六重に見えますが、実は三重の塔なのだそうです。
これは各層に裳階と言われる小さい屋根があるためで、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出し「凍れる音楽」という愛称で親しまれているのだそうです。




 東塔



西塔は東塔と比較すると、まずその鮮やかな色に目を奪われますが、またそれは奈良を表わす色使いでもあると言えます。



塔の連子窓に使われている色を「青[あお]」色、扉や柱に使われている色を「丹[に]」色と呼び、万葉集の一節に



  あおによし ならのみやこは さくはなの 
  におうがごとく いまさかりなり



と歌われている事からも当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われますね。


西塔



西塔と金堂を一緒に写真に撮るとなかなか良いですね。
薬師寺、前から来たかっただけあります。
素晴らしいところです。




西塔と金堂



このあと、薬師寺を出て少し行くと玄奘三蔵院伽藍・大唐西域壁画殿があるので行ってみました。




☆彡  玄奘三蔵院伽藍・大唐西域壁画殿  ☆彡 





玄奘三蔵をご存知ですか。
『西遊記』の三蔵法師といえば、御存じの方もおられるかもしれませんね。




玄奘三蔵は中国・隋の時代に生まれ、唐の時代に盛名を馳せた仏法僧です。
いまでは、三蔵法師といえば玄奘三蔵のことを指すようになっているが、もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守るべき戒律の「律」、経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵といい、普通名詞だったのだそうです。




大勢の三蔵法師がいたが、なかでも玄奘はきわめて優れていたので、今では三蔵法師といえば玄奘のこととなっています。





陳家13歳のときに僧に選ばれ、法名を玄奘と呼ばれることになります。
玄奘は25、6歳ころまで、仏法と高僧の教えを求めて、中国各地を巡歴しました。しかし、修行が深まるにつれて教えに疑念を懐くようになります。



漢訳経典にその答えを求めますが、各地の高僧名僧も異なる自説をふりまわして、玄奘の疑問を解くにはいたらなかったようです。




このうえは、天竺(インド)におもむき、教義の原典に接し、かの地の高僧論師に直接の解義を得るしかほかに途はないと思い立ちました。



玄奘は決心して、27歳のとき、国禁を犯して密出国します。
玄奘の旅は、草木一本もなく水もない灼熱のなか、砂嵐が吹きつけるタクラマカン砂漠を歩き、また、雪と氷にとざされた厳寒の天山山脈を越え、時に盗賊にも襲われる苛酷な道のりを旅して行きました。



このときのお話が『西遊記』になったのです。



三年後に、ようやくインドにたどり着き、中インドのナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩いたのでした。




帰路も往路と同じような辛苦を重ねながら、仏像・仏舎利のほかサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を携えて、に長安の都に帰ってきました。



この年は、日本では、中大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足らと謀って、蘇我蝦夷・入鹿親子を減ぼした「大化の改新」の年にあたるのは歴史の面白いところですね。




玄奘のインド・西域求法の旅は、通過した国が128国、実に3万キロに及んでいたとは驚きですね。



すでに、唐を発って17年の歳月がすぎ、玄奘はこのとき44歳になっていました。




密出国の出発時と違って、彼の帰還は時の唐の帝・太宗の大歓迎を受けます。太宗は、国境近くまで出迎えの使者を出すほどであったとはなんとまあ、支配者の考えることは分かりませんね。





 玄奘は帰国後、持ち帰った仏典の翻訳に残りの生涯を賭けます。
皇帝からは政事に参画することを求められたが、仏典漢訳に余生を集中することの理解をえて、翻訳事業に対して帝の全面的な支援を受けたのだそうです。




玄奘三蔵は62歳で没するが、訳業19年、死の間際まで漢訳への翻訳に打ちこんだとは有り難いことですね。




それでも、持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったというくらいですから、本当に大量の仏典を持ち帰ったのですね。



玄奘三蔵が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ74部1335巻にのぼるそうです。



また、今日本で最も読誦される「般若心経」の基となったのは、この大般若経なのだそうです。


私たちがいま、「般若心経」やそのほかのありがたい経典に触れることが出来るのはこの玄奘三蔵さまのおかげなのですね。



その玄奘三蔵さまのご頂骨を真身舎利として奉安し、須弥壇に玄奘三蔵訳経像をお祀りしているのがこの↓玄奘三蔵院伽藍・大唐西域壁画殿なのです。



大唐西域壁画殿



ここはから振り向くと薬師寺の金堂、西塔、東塔が見事に見えます。




三蔵院





大唐西域壁画殿には、平山郁夫画伯が30年の歳月をかけて完成された玄奘三蔵求法の精神を描いた壁画を絵見舎利としてお祀りしてあるのだそうです。


玄奘三蔵院伽藍


玄奘三蔵院伽藍・大唐西域壁画殿は春季・秋季に一般公開されているのだそうです。
あ~、見たかったな~。
また、来なくちゃいけなくなってしまいました。(笑)




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